月蝕領

夢女子に関するあれこれ

夢小説の可能性について

(※この記事は以前pixiv fanboxに有料掲載したものに大幅な加筆修正を加えたものです。)

 夢小説という二次創作ジャンルがある。主に二次元コンテンツのキャラクターと読者が恋愛をするという内容の小説だ。私は二年ほど様々なジャンルを横断して夢小説を書き、同人誌を刷った。その中で得た所感と、夢小説の可能性、疑問点などについて書いていきたいと思う。

結論 1) ヒロインの匿名性 2) 印象的な小物の登場 3) メタ・メタフィクション が夢小説を面白くするのではないか。オタクカルチャーが浸透している今、夢字書き(夢小説を書く人)に読者にも、夢小説が基本的にはポルノグラフィーであるという認識を持ちつつ、マゾヒズムフェミニズムを切り離して考えていく柔軟さが必要になるだろう。

① 性的主体はどこにあるのか

 夢小説のシチュエーションの多くは女性に主導権がない。書き手の多くは女性であるから、「女性の書き手が理想とする、性暴力を含んだポルノグラフィー」が夢小説ということになる。程度の差こそあれ、根幹はすべてここにあると言っても過言ではないだろう。少女漫画やティーンズラブコミックの性暴力については『ユリイカ 特集=山戸結希』内の寄稿に良い表現がある。

「胸キュン」とはおそらく、淡い暴力性を孕みつつヒロインに差し向けられた男子の性衝動を享受することの快楽のことを指しており、少女漫画によく見られる少女向けに緩和されたポルノグラフィー的表現と理解しても差し支えないだろう。- 河野真理江『からっぽな女の子が〈映え〉な世界でキラキラしてる。』

 これは昨今の映画業界で流行りの「キラキラ映画(少女漫画の実写映画)」についての文章ではあるが、夢小説にもこの要素が多分に含まれている。

 一方、同じく『ユリイカ』から、『特集=女オタクの現在』内には、『〈私〉の性的主体性 腐女子と夢女子』という寄稿がある。ここでは夢小説について、その名前変換機能(書き手が設定したヒロイン(消費者・モブ)の名前を好きに変更できる機能のこと)を中心に読み解こうとしている。ここではヒロインが「誰でもいい誰か」として存在し、そこに各々が自分を仮託していくという仕掛けについて分かり易く説明している。

むしろ夢小説では、「誰でもいい」がゆえに、その「誰か」が「私でもありうる」可能性が、けっして消し去ることのできないものとして浮かび上がってくることになる。 - 『〈私〉の性的主体性』

 つまり、没個性化した「私(ヒロイン)」がかえって読み手の当事者意識を喚起するというのだ。つまり、ある程度以上の人に自分の夢小説を読んで欲しいと望むなら、「私(ヒロイン)」は極限まで没個性化されていなくてはならないということだ。

② 現実を侵食する夢

 非現実の人間に恋をしたとき、必然的に求めるのはその恋愛のリアリティである。現実であればリアリティなどというものは必要ない(どれだけ突拍子もないことが起こったとしても、それは圧倒的に現実であるからだ)。では、現実にはいないものをいるものとして扱うとき、その表現はどう発展していくべきなのだろうか。

 私が夢小説を書くときに必ず思うことは、「幻想小説怪奇小説、怪談に似せよう」ということである。怪談というものは印象的なパーツが登場し、あとで何気ない日常の風景にそのパーツを発見した時怖がるような仕掛けがなされることがある。また、非現実的なシチュエーションを現実と言い張ることで現実を脅かそうとする。侵食してくるのである。私は、このギミックこそ最も夢小説に使われるべきではないかと思う。

 前者の例を挙げよう。作中で肉じゃがを一緒に食べるシーンを挿入したとする。それを読んだ人がその日の夕食を肉じゃがにする。ヒロイン(夢小説の主人公であり、消費者のアバター)と消費者は、同じ「肉じゃがを食べた人」という共通点を持つことになる。結び付きがより強固になるし、肉じゃがも、例え一人で食べていたとしても、妄想の中では○○くん(恋愛対象/推し)と食べたことになりうるのである。肉じゃがを見て非現実の思い出を振り返ることもできる。むしろ、肉じゃがを見る度に、一緒に食べたことを思い出すのだ。

 後者は私が「メタ・メタフィクション」と呼ぶ技法である。メタフィクションという作品ジャンル・技法(創作作品中でその作品が虚構であることを仄めかす、あるいは直接説明すること。作者のコメントなどが載せられる場合もある)があり、それを更に一段飛び越えるという意味だ。美少女ゲームや先の幻想/怪奇小説などで用いられている。作中で作品世界が(こそが)現実であると強調することで、現実を脅かす試みである。「いつまで夢を見てるの」などといった呼びかけがその一例になる。また、メタフィクションの要素を取り入れ、「ゲームの世界で一緒に生きていこう」などと言わせるのも良い。これらは舞台芸術で言うところの「第四障壁の破壊」という効果がある。舞台と観客席とは、見えない第四の壁によって隔てられており、舞台上では異なるルール、因習によって世界が展開している。しかし、舞台上から観客に呼び掛けたり、演者が自分の本名(観客席側の世界での名前)を叫んだりしてこれを意図的に破壊することで、観客は自分の現実が脅かされたように感じ、衝撃を受けるのである。つまり、メタ・メタフィクションは「作品世界と現実の双方が現実である/作品世界こそが現実で、現実は幻想である」と主張するやり方であり、メタフィクションは「幻想である作品世界が現実である現実を認識している」と主張するやり方なのである。

③ 夢女子のマゾヒズム、オタクのフェミニズム

 先述した通り、夢小説のシチュエーションは基本的にヒロインのマゾヒスティックな欲望(ここでは好意を抱いた異性からの性的暴力を受け入れたいという欲望と定義する)が含まれている。この点で「ジェンダーロールへの過剰な適応である」としてフェミニストから槍玉にあげられる日も遠くないだろう。しかし、ここには大きな勘違いがある。マゾヒズムとは個人に属するものであり、あるマゾヒストが女性であろうと男性であろうとマゾヒストであることには関係がないこと。

 先述の『ユリイカ』に『〈消費者フェミニズム〉批判序説』と題した寄稿が掲載されている。マーク・フィッシャーの影響を強く感じさせるこの文章は個人的にこの本で最も優れた寄稿であるように思う。

BLや百合や夢小説をあなたが好きだとしたら、それはどうしてだろう、社会が与えた性に対する意味づけはどう影響しているだろう?(中略)求めているものは、例えば押し付けられた偏見に抗うべく主張される「服にも化粧にも興味のある/仕事にも打ち込む/浪費を楽しむ」といったオタク女性の表象ではなくて、そのように主張させるものは何なのか、問い返すことである。 - 水上文『〈消費者フェミニズム〉批判序説』

④ おわりに

 一億総オタク化社会と言われて久しい。NHKで朝からアニメのニュースが流れる。その反面、インターネットはよりルールが厳しくなり、まるで「にわか」を追い出そうとでもするかのように複雑な「社会」を形成している。それだけではなく、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ。創作をする際などに政治的・社会的・倫理的な正しさに配慮すること)の問題も騒がれる。オタクもインターネットも、一般的になったがゆえに正しさを強制されているように感じる。夢小説もその潮流のただなかにあるのだろう。

 今は随分自身のセクシュアリティのありかたについて公にする人が増えたが、それでもまだ、隠すべきだという人も根強くいる。特に女性にとってはそのような言説はかなり身近なものとしてあるだろう。非現実を用いることで、一度距離を取って自身のセクシュアリティについて考えることができるのは二次創作の利点の一つだと言える。

 夢小説を書く人は多い。二次元に恋する人は現実を直視しない者だという批判はもう既に遠い過去のものだ。夢小説という屈折ののちに奇跡的に生まれた新しい二次創作ジャンルをもっと楽しむために、私たちにはどうやら自覚が必要らしい。

 

参考・『ユリイカ 特集=山戸結希』『ユリイカ 特集=女オタクの現在』(いずれも青土社)/『八本脚の蝶』二階堂奥歯/『ゴシックハート』高原英理/『シュルレアリスムとはなにか』巖谷國士『I READ THIS NEWS TODAY,OH BOY』山野萌絵/『メルロポンティコレクション』メルロ=ポンティ/『星の王子さま寺山修司/『裏ヴァージョン』松浦理英子/マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』